「義男(ギダン)さんと憲法誕生」(2)

日本国憲法の特徴である9条の平和主義の淵源については、諸説紛々。マッカーサー自身によるものか、当時の内閣総理大臣幣原喜重郎によるものか、はたまたGHQのスタッフの中のクエイカ―教徒によるものかなどです。しかしながら、この番組を見る限り、1945年9月6日の敗戦後初めての帝国議会における昭和天皇による「平和国家確立」の勅語以来、党派のいかんにかかわらず、当時の知識人や政治家たちに、「平和」という言葉が、敗戦後の日本においてある種の「時代精神」として漂っていたことが、小委員会のやり取りから窺えます。

GHQ草案は、「第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決としては、永久にこれを拋棄する。陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない」というものでした。非戦や非武装は語られていても、平和という言葉は見当たりません。鈴木は、1946年7月27日の小委員会において「唯戦争をしない、軍備を皆棄てると云うことは一寸泣言のような消極的な印象を与えるから、先ず平和を愛好するのだと云うことを宣言して置いて、此の次にこの条文をいれようじゃないか」と発言して、「平和」という言葉の9条への挿入を主張したのです。それが保守派の議員らの賛同を呼び起こし、「日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し」という芦田提案を引き出し、現行憲法9条につながっていきます。

 

(2015年、東北学院史資料センター主催シンポジウムのポスタ―)

 

他にも、鈴木の小委員会での発言はGHQ草案や政府の修正案に対して、加筆修正を迫ります。近年の新自由主義の横行は格差社会を残しました。そのような状況の中で、憲法25条の生存権は、重要な条項です。この条項は、アメリカ流のGHQの提案には、見当たりませんでした。またリベラリストの芦田均は、必要であるならば、憲法12条「すべて国民は個人として尊重される」の文言の後に追加すべきと考えたのです。しかし、鈴木義男は、経済的に生活保障をする政府の義務規定である生存権と、個人の権利規定である12条の自由権の要求とでは性格が異なると主張して、新たな条項の追加を求めたのです。

また、政府や地方公共団体の不法行為に歯止めをかけた憲法17条の国家賠償請求権の制定、冤罪への救済を保障した憲法40条の刑事補償請求権の制定に鈴木が尽力したこともこの番組で明らかにされました。薬害エイズ訴訟で後世の厚生大臣が謝罪したこと、34年間も囚われの身となり、死刑囚から無罪になり市民生活を回復できた免田栄さんのことを思うと、「ギダンさん」の功績の大きさに驚かされます。

最近世間を賑わせた行政権と司法権の癒着に対する歯止めについては、三権分立を堅固なものとするために、司法権の長である最高裁判所長官についても、行政権の長である内閣総理大臣と同等に、天皇による任命を求めたのも、鈴木の発案であることが明らかにされました。