戦後75年、戦災復興展見学

梅雨空の下、戦災復興記念館で開催されている仙台市主催の「戦災復興展」を観てきた。マスコミ等で報道されているように、今年は、戦後75年目という記念の年であり、東北学院史資料センターによる企画展「戦時下の東北学院」も併せて展示されているからである。

(戦災復興展のポスター)

「戦時下の東北学院」は、豊富な資料を用いながら、防空体制、航空工業専門学校の設立、軍事教練、勤労動員などが説明されていた。しかし、まさかと目を疑ったのは、当時の高等商業部の生徒が家族と交わした手紙の中の一文である。すなわち、ある先生から、院長が高等商業部の生徒を明治学院に転校させるよう、文部省から指示されたらしいとのこと、生徒たちが反対したために、転校の話は取りやめになった。確かに戦中、青山学院、関東学院、明治学院といったキリスト教学校専門部の統合が文部省によって遂行され、文科系の生徒は明治学院に集められ、敗戦前に「明治学院専門学校」が誕生した。まさか、東北学院の生徒にまでそのような話が及んでいたとは・・・。

(会場の横断幕。仙台市仙台復興記念館は、広瀬通と晩翠通りの交差点近くにある)

宣教師たちは、日米開戦が近づくにつれ、交換船で母国アメリカに帰国を余儀なくされた。戦後、東北学院には、再び戻ってきたベテラン宣教師のほかに、J-3といわれる若くて、有能な宣教師たちが多くやってきた。J-3とは、3年任期のjourneymen(見習宣教師)であり、東北学院や宮城学院(当時は宮城女学院)を拠点に、英語教師や伝道師として活躍した。その中には、C.W.メンセンデック師のように、任期終了後一時帰国し、母国で学位を取得したのちに日本へ戻り、東北学院大学文学部教授となる者もいた。

(宣教師たちの集合写真。中央がメンセンデック師-東北学院史資料センター提供)

敗戦直前の1945年7月10日、100機を超えるB29が仙台上空に来襲。12000発を超える焼夷弾、焼夷収束弾を投下、軍都でもあった仙台の中心部は焦土と化し、犠牲者の市民は1000名を超えた。「戦災復興展」は通常展示と併せて、そのような苦難を後世に伝えている。「仙台復興」とは、「戦災復興」と同義であるというのが、私の感想である。

(東二番丁通りを挟んで、上が東北学院中高、下が宮城女学院、1950年頃-東北学院史資料センター提供。道路は拡幅され、それぞれの跡地には、ウェスティンホテル、国際ホテルが建つ)