「ヒゲの校長」上映会-多様性と共存を目指す教育と研究を-

「ヒゲの校長」上映会-多様性と共存を目指す教育と研究を-

土曜日は、押川記念ホールで開催された東北学院史資料センター主催の公開学術講演会に出席し、挨拶をした。講演会には、東北学院の卒業生で、大阪聾啞学校の校長として、日本において手話を広めた高橋潔を主人公とする映画「ヒゲの校長」の上映会も行われ、聴覚障がい者の方々を含む200名を超える来場者を数えた。

(会場には、多くの障がい者の方々が出席しており、左手のタイプによるモニターの字幕、中央の手話通訳、右手前の指話法を通じて進行した)

 

講演は以下の3本であった。宮城県立聴覚支援学校遠藤良博教諭からは、県の聴覚支援学校のオンライン教材の開発を元本学工学部岩本正敏准教授の研究室と一緒に手掛けたこと、大阪聾唖学校の後身である大阪府立中央聴覚支援学校高間淳司教諭からは、高橋校長以外にも戦前期に11人はいたといわれる東北学院出身教員の記録を含め同校の資料整理のこと、そして映画の製作を牽引した大阪ろう就労センター前田浩理事長からは、高橋校長の「地の塩」としての働きのことが話された。

(この写真には、4名の東北学院出身者が登場している。大阪府立中央聴覚支援学校『120年史』のキャプションにはこう述べられている。1922年の「撮影時期は口話教育台頭期と重なり、その普及の中で、口話教育に適さないとされた聾教員が聾学校から追われていく風潮も全国に広がっていった。その中、誰もがにこやかに撮影に応じている様は、きこえない教員もきこえる教員も固い絆で結ばれていたことを体現するかのようである。高橋潔ら宮城県の東北学院出身が、当時の本校教育を推進する中心メンバーであった」)

 

映画は心に響くものであった。学院生の高橋が音楽の勉強のために留学したいと相談した折に、シュネーダー院長が「ボーイは外国などに行かない方がよい。・・・日本において幸せの少ない人の為に尽くしなさい」という言葉で諭し、その言葉を胸に高橋は自分の好きな音楽から疎外されていた聴覚障がい者の教育のために大阪に向かうシーンから始まる。そして、戦前の国家主義的風潮の中で開催された全国聾啞学校校長会において、聴覚障がい者に口元の動きでだけで、言葉を理解させ、発音させる口話法を宣言した鳩山一郎文相訓示に、高橋一人が反対し、ヤジの中、子どもに合った適性教育として手話の必要性を説くシーンは感動的であった。戦後は、手話法が主流となるが、大阪聾唖学校を拠点にして、高橋校長や指文字を考案した大曾根源助校長ら東北学院出身者を中心とした教職員の学校づくりが「多様性」と「共存」という新しい時代を切り開いたことを十分に伝える内容であった。

(シュネーダー院長と大阪聾唖学校に勤務する教え子たちの記念撮影の写真。高橋潔は、養女の川渕依子氏によれば、シュネーダー夫妻の写真を終生内ポケットに忍ばせていたという)

 

東北学院の校祖シュネーダーの著作の中には、日本のキリスト教教育論を代表する「基督教教育総合方針」(1917)という文書があり、その中で、キリスト教教育が育てるべき人物像は「確かな人間」(certain type of men)であると述べている。「消極的にいうならば、風潮に流されたり、人が置かれた環境に素直に服従しない人間であるべきである。積極的にいうならば、自らの目的のために真理を考えたり、愛したりする人で、その知識は十分に消化されており、記憶された事実の単なる集合体であるよりも現実的なものなのである」。私にとって、この文書のいく分なりとも理解できた映画であった。なお、学校法人東北学院は五橋新キャンパスの高層棟をシュネーダー記念館と命名している。