広瀬川散歩(2)

愛宕堰から少し下流の方向へ歩くと、七郷掘と六郷掘の分水堰に出くわす。ここは、堰場(セキバではなく、ドウバ)と呼ばれる。藩政時代には、堀の流れを利用して下流一帯では染物が盛んであった。この辺りには、河原町、舟丁、南材木町、南石切町、南染師町、殻町というように、水運と関連づけられる城下町特有の古風な地名が多い。

 

(七郷掘と六郷掘の分水堰、手前が六郷掘へ、向こうが七郷掘へ)

(七郷掘り沿いに残る染物屋の店舗)

 

近世の物流は、河川や堀(運河)のネットワークに依拠していた。世界で最初の産業革命をイングランドが成し遂げることができたのは、鉄道のような大量交通手段ができる前に、その緩やかな河川の流れを利用して、物流手段としての運河が発展していたからである。

(テムズ川に浮かぶ運河の輸送船ナロウボウト、ハンマースミスのパブThe Doveのテラスから)

 

地下鉄南北線の駅名でもある河原町は、大手デベロッパーによる巨大マンション開発が進展する長町、都心の一翼を形成する愛宕という両隣の駅周辺と比較すると、今では、開発から取り残されたように思われなくもない。しかしながら、青葉城主の政宗が隠居城を若林に構えた1628(寛永5)年以降、城下町仙台の南の玄関口と物流の拠点を形成していた。藩の米蔵があった河原町を起点に、広瀬川と若林城を結ぶ運河である六郷掘、六郷掘りと並んで周辺に穀倉地帯を擁する七郷掘りが水運を通じて結合していたのである。舟丁には御舟衆といわれた船頭たちが居住し、殻町には穀物問屋が置かれ、南という文字が町名ついている南材木町、南石切町、南染師町は、御譜代町の割り出しによって、若林城に通じる物流の動線上に位置付けられた。

(地下鉄南北線河原町駅)

(七郷掘に架かる舟丁橋、現在は常時放流)

 

仙台市では、新住居表示によって藩政時代の町名の多くが消滅した。広瀬川沿いに残されている町名は、水運の産業考古学の標本である。「温故知新」という言葉があるが、大阪の知人は、マンションを探す際に、防災上の観点から古地図を必ず参考にするという。淀川をはじめとする河川からなる「水の都」大阪において、街中の多くの場所が造成地であり、現在の地名だけで判断することは危険であり、地盤が本当に堅固で、地震や水害に強い地域は、江戸時代の古地図で確認した方が確かだからである。私は、東京・横浜という大都市に住んでいた時には、駅から近いかという利便性を記した地図しか持ち合わせていなかった。仙台において、古い町名が残った理由の一つに「町名は文化財だ」という主張があった。町名は地域の歴史的由来を教え、都市防災上のヒントを与えてくれる。私たちは、そろそろ「利便性という名の地図」だけに頼ることから脱却しなければ、自然災害や感染症拡大の危機を克服することはできないのではないだろうか。

(舟丁橋の袂にある仙台駄菓製造石橋屋、春の枝垂れ桜は見事)